ヒダシリツヤマノムラショウチュウガッコウ
飛騨市立山之村小中学校
Yamanomura Elementary and Junior High School

所在地
〒506-1104岐阜県 飛騨市 神岡町森茂1649-1
電話番号
0578-82-5545
Fax番号
0578-82-5547
URL
校長名 深山フカヤマ マナブ 
国公立種別
公立
学生種別
共学
開校年月
1982年4月
生徒数
12 人
男子 : 4 人
女子 : 8 人
教員数
9 人

沿革

 山之村小中学校は、岐阜県の最北端に位置する飛騨地方唯一の小中併設校です。
 昭和57年4月に旧森茂小中学校と旧下之本小中学校が統合され、山之村小学校・山之村中学校として開校しました。標高915mにある本校は、冬には2m近い積雪があり、気温は-15度前後の日が続きます。
 神岡町内から山之村への交通アクセスは、2つの方法があります。1つは栃洞から伊西峠を越して山之村に至るルート、もう一つは上宝村双六経由の大規模林道を利用するルートです。
 伊西峠経由の道路は少し狭く、カーブの多い道を20分ほど登ります。登り切ると伊西トンネルがあります。このトンネルは以前は車同士のすれちがいができなくて難所でしたが、現在は2車線の立派なトンネルに改修されています。大規模林道は2車線完全舗装の道路です。冬季間(12月~4月)は通れません。どちらのルートを利用しても神岡町内からの所要時間は約30分~35分です。

 本校の源流は明治七年和佐府の福寿寺に開設された和佐府簡易小学校に端を発しています。以来、森茂字上反甫に支校ができたり、統合して岩井谷岩本家二階や岩井谷白山神社に本拠地を移したりしながら変遷してきました。明治四十四年には下之本百八十番地の下之本校と森茂千五百七十三番地の森茂校に別れ、この状態が昭和五十六年まで続きますが、翌年両校が統合し、本校が創立されました。
 統合に至った理由は、昭和三十七年に下之本鉱山の閉山により児童生徒数が年々減少していったからにほかなりません。統合した学校をどこに設置するかについて、森茂地区か、それとも下之本地区かで住民の意見が分かれました。当時様々な条件から①下之本学校の土地②診療所北側③大字森茂字大岩平の三つの候補地が出されましたが、地元では意見がまとまらず、なかなか結論を出せませんでした。最終的に町の判断で③の現在の位置に落ち着きました。

施設・設備
 せっかく統合するのだから、最高の学校にしたいという住民や職員の熱い願いに町も国も応えていただけて、素晴らしい敷地と校舎、設備にすることができました。玄関のおしゃれな採光ドームと乾燥室、先進的なオープンスペースに絨毯を敷き詰めたあたたかい教室、校舎の一・二階に設置された便利な灯油庫、広くて明るい食堂など、児童生徒のために隅々まで配慮された校舎は、今から見ても最先端の発想で作られています。ここで学べる喜びを子供たちはひしひしとかみしめたに違いありません。
 ただし、校舎が完成しても、全てが整っていたわけではありません。写真のように玄関前にはまだロータリーがなく、少し寂しい景色でした。地面は土のままで、スクールバスや職員の車は雨が降るとぬかるんで、大変な状況でした。また、校舎の裏には小山があり、そこに生えたホウの葉が秋になると大量の落ち葉となり、校舎の景観を損ねました。これらのことも、職員から声があがると、すぐに住民が立ち上がり、無償で重機やトラックを操作して山を崩してくださったり、町に働きかけていただいたりなど、常に保護者や住民の方々に支えられてきました。有形無形の寄付や労力の提供は数え上げたらきりがありません。
 体育館は十二月の完成を待たなければなりませんでした。この間体育は主に屋外になりましたが、まだ残っていた森茂学校の体育館を使うことも多かったようです。部活動ではこの森茂学校の体育館まで走っていき、練習をし、また学校へ帰ってくるというのが日課でした。かなりハードな内容ですが、生徒達は新しい体育館で練習できる日を夢見て、元気に練習していました。
 登下校については、下之本や和佐府の児童生徒は全員スクールバスで本校に通学することになりました。これを契機に冬季は通学路が大型除雪機で除雪されるようになり、保護者の大きな負担であった雪踏みをしなくてもよくなりました。天候によっては森茂の児童生徒も下校時に送ってもらえるなど、通学の不便も解消しました。

文部省指定へき地教育研究発表 

         
 最先端の校舎という入れ物に素晴らしい山之村の児童生徒が入った教育を見たいという文部省の指定で、昭和六十年に研究発表が行われ、二百十名もの方々が参加されました。昼食は母親委員会が大活躍し、参観者全員に写真のように本校の食堂で作った弁当と汁でもてなして好評でした。

クロスカントリーコース
 スキーについては地主さんの協力で早々とスキー場が整備されて万全の状態でした。山之村のスキーというと、アルペンスキーが主流でしたが、昭和六十三年にクロスカントリーコースを作っていただいたおかげで、本校児童生徒の粘り強い精神力が生かされ、めきめきと、上達しました。二年目には中体連冬季大会のクロスカントリー部門で個人優勝やリレーの優勝も果たしました。以後の輝かしい成績は玄関に掲げられた賞状でご存知の通りです。

山之村小中学校創立十周年記念式典

 

  統合十周年を迎えた平成四年には、校区民運動会の際、記念式典を行いました。また、この年の本校の文集「こぶし」は統合十周年を記念し、統合にかかわった殆どの住民に寄稿をいただき、立派な記念誌となりました。「こぶし」は現在も続いており、毎年発行されています。

 二・三階教室床改修工事
 学校建設当時には二・三階教室は全て絨毯で敷き詰められていました。掃除の便などを考えると、普通は床張りにします。その理由は、大雪や吹雪の時は児童生徒が家へ帰られなくなるのではないかという心配があり、その場合は教室で寝袋などにくるまって寝なければならないので、暖かい絨毯の方がいいだろうと考えられたからです。ちょうど創立の直前に五六豪雪もあったため切実な問題でした。

しかし除雪機でも手におえないような大雪は創立以降なく、結局杞憂でした。それどころか水などが染みて汚くなったので、平成七年に現在の木のタイルに総張替えしました。今でも床がピカピカと光っているのはこのためです。

 全校行事の変遷
 下之本校でも森茂校でも、地域の特色を生かした行事が既に行われていました。本校もこれを引き継ぐ形で、創立の年から山菜採り、親子キャンプ、公民館との合同運動会、スキー教室、スキー大会が行われました。若干現在と違う点は、山菜採りが打保地区で行われていたことと、唐尾峠や天蓋山などへ遠足に行っていたことです。北之俣親子登山は昭和五十九年から始まりました。

 平成元年からは地主さんから田をお借りして学校田が出来ました。田植え、稲刈りが体験できるようになり、その餅米で祖父母参観時に餅つきをし、祖父母と孫で花餅を作るなど、年間を通した活動が生まれました。
 時代の流れと共に行事も移り変わり、現在は、主な行事として山菜採り・合同運動会・雪上運動会・文化祭・船津座公演が行われています。スキー教室は流葉スキー場にて行われ、親子キャンプや天蓋山登山はPTAの親子行事となっています。

 水道完備

  

 今思うと夢のようですが、平成九年九月までは、上水道は学校を含めて地域全体が山水を使っていました。現在ゼンマイ採りをしている山から流れる山水を写真のタンクに貯め、道路を挟んで運動場東側に今も残っているポンプを使って学校へ上げていました。毎日このタンクの点検をするのが本校教頭の日課でした。時として熊に出くわし、命からがら逃げてきたという事もあったそうです。落葉の季節や大雨の次の日など、このタンクによく木の葉や土がたまり、学校の蛇口から水が出なくなりました。そうなると、トイレも給食も困るので、授業中であろうが、写真のように職員がタンクの掃除に行って対処していました。夏休み前、冬休み前には定例で必ずこの作業を行っていたそうです。 

 森茂簡易水道が完成してからは、毎日安心して水を使えるようになり、大変便利になりましたが、山水のおいしさが忘れられないという声も地域の方々からしばしば聞きます。

山之村マップを玄関に設置

 

 平成十二年度から総合的な学習の時間の試行が始まりました。これを受けて、小学校高学年児童で山之村の立体地図を作ろうという取り組みがありました。山之村が一望でき、重要な施設がランプの点滅によって誰にでも一目瞭然となるという、大変よい設備になったので、玄関に設置されました。このことは岐阜新聞にも取り上げられました。現在、展示はされていません。年に一度、文化祭の時に体育館に展示され、見てもらっています。

第10回船津座公演を2部公演で実施
 平成30年11月11日(日)に第10回目の船津座公演を実施しました。平成21年に第1回目を始められて10回を数えることとなりました。10回を記念して、例年は平日に行っていましたが日曜日に午前と午後の2部制で行い、多くの方々に参観いただきました。午前中には、記念セレモニーとして第9回までの思い出の場面をスライドで見ていただき、都竹飛騨市長にご祝辞をいただきました。これまでお勤めの校長先生や先生方にもご来場いただきました。2部合わせて300人以上の方々に見ていただき、子ども達も本当に嬉しそうでした。